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(C)2024 OGURA MUSEN. .....New hybrid radio station.

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電力専科

思ひ出、蘇る「放送局型第百二十三号」受信機


昭和20年(1945年)前後[終戦時]を代表するラジオです。
終戦の
玉音放送を聞いたラジオです。
 ・正式表記は「放送局型第百二十三号」受信機

当時、私の家で使ったラジオです。



太平洋戦争(大東亜戦争)関連のラジオ放送録音資料

開戦臨時ニュース (16秒)  の 試聴mp3 ←クリック 

終戦の玉音放送
玉音放送 ( 4分40秒 )   の 試聴mp3 ←クリック 

玉音放送、宮内庁デジタルリマスター盤 ←クリック 
宮内庁デジタルリマスター盤・・・非常に明瞭です
ホーム/宮内庁/広報・報道/当庁が管理する先の大戦関係の資料について/終戦の玉音放送
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.htm
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さらにノイズカット盤   ←クリック
https://www.youtube.com/watch?v=Xx26e1UN3xM



玉音読み下し文

朕(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置(そち)を以(もっ)て時局(じきょく)を収拾(しゅうしゅう)せんと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告(つ)ぐ

朕(ちん)は帝国政府をして米英支蘇(べい、えい、し、そ)四国(しこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告(つうこく)せしめたり

抑々(そもそも)帝国臣民(しんみん)の康寧(こうねい)を図(はか)り万邦共榮(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕(ちん)の拳々(けんけん)措(お)かさる所(ところ)

曩(さき)に米英二国に宣戦(せんせん)せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亞(とうあ)の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排(はい)し領土を侵(おか)すが如(ごと)きは固(もと)より朕(ちん)が志(こころざし)にあらす

然(しか)るに交戦(こうせん)己(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕(ちん)が陸海(りくかい)將兵(しょうへい)の勇戦(ゆうせん)朕(ちん)が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)朕(ちん)が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう)各々(おのおの)最善(さいぜん)を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず戦局必すしも好転せず世界の大勢亦(また)我(われ)に利(り)あらず

加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に残虐(ざんぎゃく)なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し惨害(さんがい)の及(およ)ぶ所(ところ)眞(しん)に測(はか)るべからざるに至(いた)る

而(しか)も尚(なお)交戦(こうせん)を継続せんか 終(つい)に我が民族の滅亡(めつぼう)を招來(しょうらい)するのみならず延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし

斯(かく)の如(ごと)くは朕(ちん)何(なに)を以(もっ)てか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊(しんれい)に謝(しゃ)せんや 是(こ)れ朕(ちん)が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至(いた)れる所以(ゆえん)なり

朕(ちん)は帝国と共に終始(しゅうし)東亞(とうあ)の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得(え)ず

帝国臣民(しんみん)にして戰陣(せんじん)に死し職域(しょくいき)に殉(じゅん)じ非命(ひめい)に斃(たお)れたる者及(および)其(そ)の遺族(いぞく)に想(おもい)を致(いた)せは五内(ごない)爲(ため)に裂(さ)く

且(かつ)戦傷(せんしょう)を負(お)ひ災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業(かぎょう)を失いたる者の厚生(こうせい)に至(いた)りては朕(ちん)の深く軫念(しんねん)する所(ところ)なり

惟(おも)うに今後帝国の受(う)くべき苦難(くなん)は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず

爾(なんじ)臣民(しんみん)の衷情(ちゅうじょう)も朕(ちん)善(よ)之(これ)を知る

然(しか)れども朕(ちん)は時運(じうん)の趨(おもむ)く所(ところ)堪(た)え難(がた)きを堪(た)え忍(しの)び難(かた)きを忍(しの)び以(もっ)て万世(ばんせい)の爲(ため)に太平(たいへい)を開(ひら)かんと欲(ほっ)す

朕(ちん)は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得(え)て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し常(つね)に爾(なんじ)臣民(しんみん)と共(とも)に在(あ)り

若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激(げき)する所(ところ)濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互(たがい)に時局(じきょく)を亂(みだ)り爲(ため)に大道(だいどう)を誤(あや)り信義(しんぎ)を世界に失(うしな)ふか如(ごと)きは朕(ちん)最(もっとも)も之(これ)を戒(いまし)む

宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅(ふめつ)を信(しん)じ任(にん)重くして道(みち)遠きを念(おも)い総力を將來(しょうらい)の建設に傾け道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期(き)すべし
爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)れ克(よ)く朕(ちん)が意(い)を體(たい)せよ

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日



玉音放送、現代語訳文◆ 

 私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。

 私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。

そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。

先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。

しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず、世界の情勢も我々には不利に働いている。

それだけではない。敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。
それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明おも破壊することになってしまうだろう。

そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

 私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。

さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。

思うに、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになる。国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。

 私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。
もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。
国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。

あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

 天皇の署名と印璽
 昭和二十年八月十四日       現代語訳 太田一水 氏 





あるハムの終戦秘話
(私の加入メーリングリストより)


                  投稿者のご承諾済み

皆さん    

私の終戦は樺太(サハリン) 豊原市(ユジノサハリンクス?)

当時は豊原第三国民小学校3年でした。

家にラジオが有って親や従業員達と一緒に玉音放送を聞いたことは
覚えていますが、ハッキリ意味は分からない乍らも戦争が終わった
事は理解できました。

樺太でも内地(本州)と同時にラジオで玉音が聞けたのは、樺太にも
NHKの放送局が有ったのか、または北海道のNHKを聞いていたのか
ハッキリしませんHi

当時家の2階に何とか中将さんと、お付きの兵隊さん2名が間借り?
していて何か薬品を使って研究をしていました。

良くストーブの上に黒い粉(多分火薬?)をパラパラと落として線香花火
のようにパチパチと火花を出して遊んで貰った思い出が有ります。

玉音放送を聞いた日に、その中将さんと兵隊さんは何処かへ行って
しまいました。

818日に女、子供だけ引き揚げ出来ることになり、母親と子供4人で
北海道の遠い親戚を頼りに引き揚げて来ましたが、父親は残って

昭和2112月に引き揚げが再開したときに帰ってきました。

終戦は815日となっていますが、820日にソ連兵が樺太に進駐して
来て豊原市も焼け野原になったようです。

私達が乗った連絡船の前後の船は何れもソ連の潜水艦により沈められた
ようです。

従って樺太では815日の終戦以降にソ連と戦争が始まり占領された
ように感じています。

樺太からの引き揚げ者は少なく、樺太の情報も少ないですが、行こうと
思えば観光でも行けるので、生きている内にもう一度樺太へ行ってみた
いと思います。

815日終戦のお話しが出ましたので遠い昔を思い返しています。



−−さて−−

上の写真は、昭和18年ごろ、戦時体制下で物資が極端に不足し省資源化をはかったことから生まれた、ある意味で「時代の産物」とも言える物でしょうか?  [ 七欧無線電気(株)製]

日本放送協会の統一仕様で、戦争末期(18〜20年)に作られた物らしいです。  (現品は廃棄してしまい写真だけあります)

ダイアルは直結、コイルはシャーシの上下でシールドケースは無かったように記憶してます。(電源トランスレス)
受信周波数は、550KC〜1500KCですね。(ラジオ少年の記憶ですが・・・)

詳しくは、Net【検索】で、たくさん、資料が得られます!



「放送局型第百二十三号受信機」へのリンク

放送局型123号受信機の修復日記
へのリンク 

回路図




戦後のNHK放送電波(周波数:昭和25年7月15日現在)
N.H.K.技術局管理部運用課資料抜粋

  550KC 福 岡1 10 KW JOLK
  570KC 札 幌1 10 KW JO I K
  590KC 東 京1 50 KW JOAK
  650KC 大 阪1 10 KW JOBK
  690KC 福 岡2 10 KW JOLK
  730KC 松 江1 10 KW JOTK
  750KC 札 幌2 10 KW JO I B
  770KC 東 京3 50 KW 進駐軍
  790KC 廣 島1 10 KW JOFK
  810KC 新 潟1 10 KW JOQK
  830KC 大 阪2 10 KW JOBB
  850KC 北 見1 10 KW JOKP
  870KC 名古屋1  10 KW JOCK
  890KC 仙 台1 10 KW JOHK
  930KC 熊 本1 10 KW JOGK
  950KC 東 京2 100KW  JOAB
  990KC 鹿児島1 10 KW JOHG
 1030KC 松 江2 10 KW JOTB
 1070KC 新 潟2 10 KW JOQB
 1090KC 廣 島2 10 KW JOFB
 1130KC 仙 台2 10 KW JOHB
 1170KC 熊 本2 10 KW JOGB
 1190KC 鹿児島2  10 KW JOHC
 1350KC 名古屋2  10 KW JOCB

以上電力10KW以上の放送局をピックアップしました。
これらは、「電波法」「放送法」施行により、電波が広く一般民間に解放される以前の状況です。



無線と實験[臨時増刊](これからのラジオ)
発行:昭和25年8月20日 定價150円  
(筆者蔵書)







戦後の電気通信で、まず真っ先に着手されたのは長距離通信網の建設。
その手段の一つとして・・・・・マイクロ波通信があげられますね。

マイクロ波というのは、一般に0.3GHzから300GHzくらいまでの電波のことを言いますが、EHF(extremely high frequency)は、戦争中に、わが国でもレ−ダ−として軍事目的に使われ、この技術が戦後の情報通信に大きく貢献したわけですよね。

米国では、長距離電話通信網の手段として昭和23年頃、大陸横断の4GHzのマイクロ波中継方式が完成しおり、わが国でも当時の逓信省を中心に各所でマイクロ波通信の研究がはじまったようです。



上記、無線と實験[臨時増刊](これからのラジオ)には、戦後間もない昭和25年5月2日に公布6月1日施行された「電波三法律」(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)について概要が載っています。
なお、「電波監理委員会設置法」は後の昭和27年に廃止されてます。

また、大電力放送が行われ、放送網が拡充されるとともに、民間放送の実施を前にして・・・その際の混信除去のため、各種家庭用ラジオの「スーパヘテロダイン受信改造」の記事が大部分をしめています。

それから、中間周波数463kC455kCへの変更・・・・
いわゆる、航空機や船舶無線による463kCビート障害排除などスパー受信化での諸問題について、専門的に解説しています。


「465MCの市民ラジオ」と「極超短波の傳播」の解説に本紙の半分を割いています。

私にとって、当時の電波事情を偲ぶ愛蔵書です。



【無線と実験】誌について
(参考)
日本のラジオ放送開始の前年である大正13年5月にラジオ放送聴取のための技術啓蒙雑誌として創刊された。
初期は表題どおり無線に関する実験の記事が中心であった。
その後、エレクトロニクスを総合的に扱った時代を経て、オーディオ関係の記事が主になり、現在は
「MJ無線と実験」に改題、オーディオ専門誌となっている。



【昭和25年の出来事】

01/01 年齢の表記・呼称が満年齢で書くよう変更。従来は数え年制が習慣化していたので・・・国民若返り!

06/25 朝鮮戦争始まる。

07/28 新聞・通信・放送界にもレッドパージ始まる。

11/10 NHK東京テレビジョン実験局、定期実験放送開始。

【世相】 木炭・魚・米以外の主食・綿製品など価格統制撤廃。








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スマホでパチリ・URL


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