◆玉音読み下し文
朕(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置(そち)を以(もっ)て時局(じきょく)を収拾(しゅうしゅう)せんと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告(つ)ぐ
朕(ちん)は帝国政府をして米英支蘇(べい、えい、し、そ)四国(しこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告(つうこく)せしめたり
抑々(そもそも)帝国臣民(しんみん)の康寧(こうねい)を図(はか)り万邦共榮(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕(ちん)の拳々(けんけん)措(お)かさる所(ところ)
曩(さき)に米英二国に宣戦(せんせん)せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亞(とうあ)の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排(はい)し領土を侵(おか)すが如(ごと)きは固(もと)より朕(ちん)が志(こころざし)にあらす
然(しか)るに交戦(こうせん)己(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕(ちん)が陸海(りくかい)將兵(しょうへい)の勇戦(ゆうせん)朕(ちん)が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)朕(ちん)が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公(ほうこう)各々(おのおの)最善(さいぜん)を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず戦局必すしも好転せず世界の大勢亦(また)我(われ)に利(り)あらず
加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に残虐(ざんぎゃく)なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し惨害(さんがい)の及(およ)ぶ所(ところ)眞(しん)に測(はか)るべからざるに至(いた)る
而(しか)も尚(なお)交戦(こうせん)を継続せんか 終(つい)に我が民族の滅亡(めつぼう)を招來(しょうらい)するのみならず延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし
斯(かく)の如(ごと)くは朕(ちん)何(なに)を以(もっ)てか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊(しんれい)に謝(しゃ)せんや 是(こ)れ朕(ちん)が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至(いた)れる所以(ゆえん)なり
朕(ちん)は帝国と共に終始(しゅうし)東亞(とうあ)の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得(え)ず
帝国臣民(しんみん)にして戰陣(せんじん)に死し職域(しょくいき)に殉(じゅん)じ非命(ひめい)に斃(たお)れたる者及(および)其(そ)の遺族(いぞく)に想(おもい)を致(いた)せは五内(ごない)爲(ため)に裂(さ)く
且(かつ)戦傷(せんしょう)を負(お)ひ災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業(かぎょう)を失いたる者の厚生(こうせい)に至(いた)りては朕(ちん)の深く軫念(しんねん)する所(ところ)なり
惟(おも)うに今後帝国の受(う)くべき苦難(くなん)は固(もと)より尋常(じんじょう)にあらず
爾(なんじ)臣民(しんみん)の衷情(ちゅうじょう)も朕(ちん)善(よ)之(これ)を知る
然(しか)れども朕(ちん)は時運(じうん)の趨(おもむ)く所(ところ)堪(た)え難(がた)きを堪(た)え忍(しの)び難(かた)きを忍(しの)び以(もっ)て万世(ばんせい)の爲(ため)に太平(たいへい)を開(ひら)かんと欲(ほっ)す
朕(ちん)は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得(え)て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し常(つね)に爾(なんじ)臣民(しんみん)と共(とも)に在(あ)り
若(も)し夫(そ)れ情(じょう)の激(げき)する所(ところ)濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互(たがい)に時局(じきょく)を亂(みだ)り爲(ため)に大道(だいどう)を誤(あや)り信義(しんぎ)を世界に失(うしな)ふか如(ごと)きは朕(ちん)最(もっとも)も之(これ)を戒(いまし)む
宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え確(かた)く神州(しんしゅう)の不滅(ふめつ)を信(しん)じ任(にん)重くして道(みち)遠きを念(おも)い総力を將來(しょうらい)の建設に傾け道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期(き)すべし
爾(なんじ)臣民(しんみん)其(そ)れ克(よ)く朕(ちん)が意(い)を體(たい)せよ
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日
皆さん
私の終戦は樺太(サハリン) 豊原市(ユジノサハリンクス?)で
当時は豊原第三国民小学校3年でした。
家にラジオが有って親や従業員達と一緒に玉音放送を聞いたことは
覚えていますが、ハッキリ意味は分からない乍らも戦争が終わった
事は理解できました。
樺太でも内地(本州)と同時にラジオで玉音が聞けたのは、樺太にも
NHKの放送局が有ったのか、または北海道のNHKを聞いていたのか
ハッキリしませんHi
当時家の2階に何とか中将さんと、お付きの兵隊さん2名が間借り?
していて何か薬品を使って研究をしていました。
良くストーブの上に黒い粉(多分火薬?)をパラパラと落として線香花火
のようにパチパチと火花を出して遊んで貰った思い出が有ります。
玉音放送を聞いた日に、その中将さんと兵隊さんは何処かへ行って
しまいました。
8月18日に女、子供だけ引き揚げ出来ることになり、母親と子供4人で
北海道の遠い親戚を頼りに引き揚げて来ましたが、父親は残って
昭和21年12月に引き揚げが再開したときに帰ってきました。
終戦は8月15日となっていますが、8月20日にソ連兵が樺太に進駐して
来て豊原市も焼け野原になったようです。
私達が乗った連絡船の前後の船は何れもソ連の潜水艦により沈められた
ようです。
従って樺太では8月15日の終戦以降にソ連と戦争が始まり占領された
ように感じています。
樺太からの引き揚げ者は少なく、樺太の情報も少ないですが、行こうと
思えば観光でも行けるので、生きている内にもう一度樺太へ行ってみた
いと思います。
8月15日終戦のお話しが出ましたので遠い昔を思い返しています。